傲慢

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月曜日のイベントは、いざふたを開けてみれば、無事終了で、大成功。
直前の自己評価を覆し、93点とか、96点とか、そういうレベルの出来栄え。

さまざまな人たちの思いが結集すれば、自分ひとりではできないことも、成し遂げられるのだと、実感として体感できたのは、ちょっとした衝撃だった。

直接、力を出し合った、同僚のみんなに対してはもちろん、掃除の人にも、設備・什器を担当してくれた人にも、近所のお店のレジを打ってる人にも感謝・感謝という気持ちが湧き上がるのは、我ながら不思議。

その衝撃や違和感を突き詰めていくと、自分は、元先輩や元上司を批判的に見ていながらも、無自覚に同じ病に根ざしていたのだと気がついた。それは「独善」や「傲慢」という病である。

私の元先輩や元上司が関わっていた、書籍の編集や、映像の演出といった、ある種の「箱庭」を自身の美意識や倫理観でトータルに作りこむような仕事を行う場合には、良きにつけ悪しきにつけある種の「独善」性が要求されるのは確かである。箱庭の創造主は、そのできに関する毀誉褒貶を一身に背負わなければならない孤独な立場にあるからだ。

これらの仕事を高度なレベルで達成するパフォーマーが、何らかの事情や経年での立場変更で、事務組織の運営などほかの仕事にあたる場合に、同じようなアプローチで仕事を行おうとするから、問題は起こるのだ。

事務組織の運営が、独善的な上司の上意下達によってうまくいくことは、ほとんどあるまい。それは、その上司が超人的な能力をもっているか、組織がごくごく小さい場合に限られるだろう。しかしその場合でも、組織としてのパフォーマンスを継続的に発揮することはないのではないか。「自分の自由意思を奪われている」と感じる構成員は組織からの離脱を常に考えるはずだからだ。

組織の隅々にまで意識をめぐらし、その構成員の一挙手一投足まで指示をだすという芸当は私には無理な話……という自覚はある。

だから、私がまずおこなうべきは、大きな目標をたて、それをある程度小さい中間目標にブレイクするところなのだ。また、その中間目標をさらに細かいタスクに分割して、どう達成するかは構成員みんなの自主性に任せると同時に、その判断が適切になるように状況判断の相互交換を活性化するところも私の任務だろう。

そういう任務については、ある種、愚直にビジネススクールにおける組織論の教科書どおりにやったつもりだ。ならば、事の成否は、構成員の努力などに掛かっていることも、教科書どおりに理解していなければならなかった。みんなが目標に向かって努力をして、その達成に向かって工夫をこらしながらがんばっていたことにも、教科書どおりにもっと目配りをしなければならなかった。
正直言って、そうした理解や目配りはまったくもって私には欠けていた。自分のことだけで頭がいっぱいだった。自分のやるべきタスクが十分にこなせていないことばかりに目がいっていた。「自分はこの程度しかできなかったから、全体でもこの程度だろう」というある種の低い期待やあきらめ……それは、私の独善や傲慢に源を発していたのだ……と、今、この成果を前に猛烈に反省をしている。

何はともあれ、皆々様に感謝、感謝……。

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このページは、washiが2006年4月 5日 00:47に書いたブログ記事です。

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