議論するつもりはなくて…

| | コメント(0)

某友人の日記に対するコメント、長くなってしまいました。

彼のサイトに載せるには不適切だと思いますので、一時的にこちらに載せます。いずれ削除することになると思います。

政治的(?)な発言が含まれていますので、ご留意ください。


※ 読まずに引き返す方はこちら

私は、小泉首相の靖国参拝には反対です。

理由は、「政教分離は徹底すべきものだ」と考えるからです。

今回の小泉首相の伊勢神宮参拝そして憲法19条20条を盾にした抗弁は浅薄・姑息で、理由になっていないと私は感じます。

宗教には合理的な判断をゆがめてしまう力があります。組織をマネジメントする上ではその力から逃れて可能な限り自由に意思決定をする必要性があります。
それには、すべての宗教から距離をとるという方法もあるでしょうが、すべての宗教を尊重するという方法がより望ましい方法であり、憲法の精神もそこにあります。

ここで、重要なことは、特定の宗教の神秘性や教義、そして宗教そのものに向けられる民衆の熱狂を、組織のマネジメントに援用しようとするものは、やがて手痛いしっぺ返しを食らうということです。近代国家の歴史はそれを証明しています。「国家神道」を国のマネジメントに用いた「大日本帝國」もその法則から逃れることはできませんでした。

イスラエルや中東の情勢、あるいはイスラム圏による西欧諸国に対するテロの問題を考えても、政教分離はたとえ少しずつであろうとも将来に渡って進めていくべきものではないでしょうか。私は今の時代に生きる一人の人間としての歴史的使命と責任をそこに感じます。

「政教分離」を自民党も民主党もそして司法もきちんと言えないのは、つくづく情けない、そして恐ろしい状況だと感じます。
自民党は公明党からの選挙協力が必要だし、立正佼成会や勝共連合からの支援の必要性もある。民主党だって、さまざまな宗教団体とくっついたり離れたり、公明党に対して小沢代表の言うことはコロコロ変わっているし、地方議会レベルではやはり癒着している。糺すべき司法も上級審での時の権力に阿った判決がでるというオチは見え見えです。

政教分離の徹底の一点が小泉首相参拝に対するここでの私の反対理由なので、靖国の存在そのものについては別の議論ですが、ちょっとだけ触れておきます。

参拝する方々にその意図があるかどうかは別として、靖国神社のドグマが「皇軍に正義あり」であるということは明らかです。しかし、それは、絶対不変の真理などではなく、今日では議論の対象となるイシューである状況です。

私の父方の先祖は神主でしたし、母方の先祖は秋田・佐竹藩士の官軍として戊辰戦争を戦い、曽祖父は帝国陸軍の職業軍人として日露戦争に従軍もしており、靖国神社のイドラ側にいるべき立場の人間です。

それでも、疑義をはさみたくなるのが、「ヤスクニ」の言うところの国とは何なのか、という点です。

戊辰戦争で会津藩の戦死者を埋葬することを禁じて野ざらしにさせたような、戊辰戦争の勝者側、薩摩・長州を「国」の「神」として祭ることを出自としている場所が、果たしてこの今の日本において、小泉首相の言う「苦しい思いをされ、できれば避けたかった、戦場に行きたくなかった多くの兵士」に対して、現代の日本国民が哀悼の意を捧げる場所として適切なのでしょうか? そして会津藩士、さらには函館戦争、西南戦争の敗北者側を祭ることをしない靖国神社が想定している「国」というものは、設立当時と現在で同じものを指しているでしょうか? 戦前の「皇国の皇民」ならいざ知らず、今の「日本国の国民」がみなわだかまり無く参拝できるのでしょうか? 

100年前、会津藩と薩摩・長州藩の民衆が意思疎通をすることなどなかったでしょう。しかし、今日、イスラエルとパレスチナの市民がお互いのblogにコメントをつけたりチャットをしたりという現在、私のシンパシーは、たとえば日本国籍を持っている商店街のシャッターにスプレーで落書きをするような連中よりも、国籍はどこだろうと「萌え〜」とパソコンの前で言っているような連中に向けられています。同様に、明治維新以降の国政の中枢を担った薩長の芋侍にではなく、悲劇的な末路をたどった会津藩士に対して同情を禁じ得ないのです。

ここにおいて、小泉首相は日本国民の代表として、靖国神社に参拝するとき、賊軍・白虎隊・新撰組・西郷隆盛の係累(もちろんその方々のほとんども日本国民でしょう)の気持ちを傷つけているということを自覚されているでしょうか? それは果たして現代の日本国の国民の代表者として適切な行動なのでしょうか?
そこには、敗戦までの大日本帝国の天皇が、戊辰戦争以降に、自ら(=国体)のために命を擲ってくれた者たちを慰霊するために靖国神社に参拝するのとは、本質的な違いがあることに留意すべきでしょう。

そこを厳しく見つめて、小泉首相の靖国参拝の評価材料の一つとすることもできるかもしれませんが、それは本稿の趣旨とは別のところです。

ともあれ、大事なことは、特定の宗教のドグマから自由になって、組織をマネジメントすること、すなわち「政教分離」であるということを、私は繰り返し述べておきたいと思うのです。

カテゴリ

このブログ記事について

このページは、washiが2006年8月18日 08:18に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「仕事」です。

次のブログ記事は「古いコラム」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

    Powered by Movable Type 4.0