目的合理性
最近、思ってることは、「どうすれば、落合みたいになれるかなぁ 」ということ。
いや、選手として、「三度の三冠王」「史上最高の右バッター」、監督として「名将」「知将」の名をほしいままにする
そういう歴史に名を残す実績には、自分ごときがどうあがいても到底及びもしないのは、百も承知なのだけれど。
マックス・ヴェーバー的に言えば、どうすれば落合のような「目的合理性」を身につけられるかなぁ
ということだ。
目的合理性をひらたくいえば、目的の達成のために手段を選ばない、批判を恐れない、闘争を厭わない
ということだ。
選手時代も監督時代も、落合の通った道、示した態度というのは「目的合理性」の権化とでもいうべきものだと思う。
落合の実績が目的合理的だったが故かどうかはわからない、また、目的合理的であれば誰でも落合のような実績を残せるかといえばそれは違うだろう。さらに、世の中の人皆が目的合理的であるべきかどうかも私には何とも言えない。
ただ、今の自分の状態は、なんとも、非合理的、秩序過剰、刹那的、享楽的でありすぎる。目的合理的とは反対だ。要するに「流されている」ということだ。いや、「流され過ぎている」。だから、問題なのだ。
このままの自分が行き着くところは、まずい。
どういうところに行き着き、それがどうまずいかどうかを詳しく書くのは控えるけれど 。とにかく、自分は、行動規範の大転換をしなければならないと思っている。
コメントする