上海人と日本人は違う原則で生きている。

| | コメント(2)

今回の上海行きで一番最初に感じたのは、上海人と日本人は違う原則で生きているということだ。日本人、という括りが適切かどうかはわからないが……。少なくとも、僕の良く知っている秋田県人や東京都民は違う。

僕が上海人の原則を言葉にするなら、「自分個人の現在の利益を最大化せよ」ということではないかと思う。
端的に現れているのは、ドライバーや歩行者の往来だ。
たとえば車の場合。
空港から市街地へ向かうのや、市街地での移動にタクシーを使ったのだけれど、これが……目の前でモタモタしている車があると、すぐに車線変更。体感的には5秒に1回は車線変更。120キロで走っているのに車間距離1メートル。割り込む隙間がちょっとでもあれば、ぐいぐい割り込む。割り込ませないように、車間距離を詰めるし、クラクションを鳴らす。そしてなにより、自分が先頭を走ろうとする。
歩行者は、道路を横断するのに、渡りたければどこでも渡る。信号は見ない。
車も、人が渡ろうとしていてもお構いなし。一時停止して人を通してやろうとかはしない。逆に人に通られないように、クラクションを鳴らして、ちょっとの隙間をみつけて加速して通っていこうとする。
だから、往来はクラクションだらけ。寝ていても朝寝坊なんかできない。6時を過ぎれば通りの喧騒で目が覚める。クラクションは自己主張であり、争点の明確化であり、責任範囲の限定であり、免責の印だ。

ほぼすべての局面でこの原則は貫かれていると見ていい。
たとえば、空港でカートを職員がまとめて移動させるような場合。
日本だったら、職員は、客にぶつけないようにルートを選ぶだろう。進路で人が障害になっているときは待つか、あるいは、「すみません。カートが通ります」と言ってどいてもらうだろう。ぶつけたら「すみません。失礼しました」と言うだろう。
上海の場合、基本的に目的地に向かって最短距離を行こうとする。進路で人が障害になっているときは、声をかける。そしてそのまま最短距離を進む。ぶつかったとしても、こっちは声をかけたんだから悪くない。ぶつけられたくなかったら、そっちがどくか、こっちに「あっちへ行け」と主張しろ。それをしないで、ぶつけられるのは、怠慢であり、そちらの責任だ……となる。

お店の店員だって、食堂のウェイトレスだって、美術館のキュレーターだって、みんな客のことはお構いなしにだべって、おしゃべりに夢中。「こっちはこっちのやりたいことをやる」「かまって欲しけりゃ声をかけろ」とそういう姿勢。

ルールというのは、科学的法則と同じで、シンプルなもの、例外のないものほど強く正しい。ニュートンの物理法則より、アインシュタインの相対性理論の方が相対的に強く正しいのと同じだ。

上海人の原則はシンプルで明快だ。
欧米人にとっても、これは分かりやすい。
だから、多くの外国人を惹きつけるのだろうと思う。

ただ、総体として見たとき、この行動は合理的なのかと疑問を感じずにはいられない。合成の誤謬を起こしているとしか、僕には見えない。

たとえば、車の運転や歩行者の横断だって、日本の自動車教習所で習うようなやり方の方が結果的に良いだろう。
他者に思いやりをもって接した方が、総体での事故も減るだろう。
あんなにウネウネと車線変更をしない方が、トータルでの走行距離は減るだろう。ガソリンだって、タイヤだって節約できるだろう。
早い車ほど中央寄りの車線を走り、追い越しをしていくとした方が、最大多数の最大幸福を実現するだろう。
あんなに全身全霊を使って、車を運転したり道を横断したりしなくても良い方が、その他の本来やりたいことに精神と体力を割けるだろう。

池の鯉に麸を投げ込むと、鯉がみんな我先に飛びつく。
躍動する鯉は充実感を味わってるだろうなぁ……でもなぁ……と思う気持ち。それに近い。

どこで読んだ話か忘れたけれど、戦争に負けて日本人が中国から引き上げるとき、引き上げ船に我先に殺到するのではなく、そんな時でも整然と列を作って順番に乗り込む姿を見て、中国の人は日本人に対して底知れぬ怖さを感じたそうだ。
わかるわかる。

ただ、日本人の原則が普遍的に通用しないことは明白だ。
我先に麸を奪い合っている一群の後ろで、自分の順番を並んで待っている鯉は、餌にありつきそこねるだろう。
あるいは、逆に、自分の順番を並んで待っている一群に、やりたいことをやりたいようにやる一匹が迷い込んだら、こんなに楽なことはないだろうな。

はてさて、日本がおかれている状況の理解は改めて深まった気がする。
僕が日頃おつきあいをしている中国人の友人と、日本に来たばかりの中国人との違いのミッシングピースも見つかった気がする。
僕が村上龍の「すべての男は消耗品である」的な価値観に軽い嫌悪感を覚えるのにも、またひとつ理由がつけ加わった。
では、自分はどう行動するべきなのか……ということには、まだ、はっきりとしたものが見つからず、上海でも機内でも、そして今でも、あれこれと思案にくれている状況。

折しも、成田空港について、イミグレーションに向う途中、広告の看板が出ていて、どこかのゴルフクラブだかボールだかのコピーで「ルールには従う。常識は疑う」というのがあった。個人的には失笑を禁じ得なかった。それが「カッコイイと思ってもらえる」「人々にアピールして商品を買ってもらえる」と思っている人々の大勢住む場所に自分は帰って来たのだと。

カテゴリ

コメント(2)

yuichiroh :

上海、色々とカルチャーショックを受けたようですね。

>ただ、総体として見たとき、この行動は合理的なのかと疑問を感じずにはいられない

日本のように人口の少ない国では互いが効率よく生きていかねば国力は衰えてしまうけど、中国のように人口の多い国では多少の「合成の誤認」は総体でカバーできてしまう、ということは考えられるでしょうか。日本人から見ると無駄だと思うことでも、圧倒的な数の前に多少の無駄は吹き飛んでしまうのが今の中国のパワーだと感じてます。

建設業界では技術の未熟さはあるものの、大量の安価な労働力のおかげで超高層がどんどん建ってきました。もちろん今後は高度な技術力(=効率よい労働力)という流れにシフトしつつあるようですが、まだまだ時間がかかるようです。

washi :

うーん……指摘を受けて改めて考えてみると……上海人の行動が総体で合理的かどうかという問題と、日本人の行動が合理的かというのは別の問題ですね。
上海人の行動は、日本人の行動を他山の石として見れば、もっと合理化できそうな気がします。
日本人の行動は、状況変化によって、合理的でなくなっているものも多いのに、それを内的な力で変革するダイナミズムに欠けているように感じます。
おっしゃるとおり、前者は、不合理であるけれど、パワーがあり、後者は合理的ではあるけれど、パワーが欠落している……と。

コメントする

このブログ記事について

このページは、washiが2006年5月 1日 09:24に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「無事帰宅」です。

次のブログ記事は「間違えられた」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

    Powered by Movable Type 4.0